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最高裁判所第二小法廷 昭和31年(あ)4204号 判決 1958年6月13日

主文

原判決を破棄する。

本件を東京高等裁判所に差し戻す。

理由

弁護人海野普吉の上告趣意第一点ならびに同足立達夫および被告人本人の各上告趣意について。

第一審判決は、本件犯罪事実を認定する証拠として、被告人の司法警察員に対する自白を録取した第二回ないし第八回供述調書を挙示している。そして、原判決もこれら自白の任意性を認めて、第一審判決が右自白調書七通を犯罪の証拠としたことを是認しているのであるが、右自白の任意性は弁護人等の極力争うところである。

よって、この点につき、原判決の右判断に誤りがないかどうかを、以下に検討する。

記録によれば、本件兇行は昭和二五年五月一〇日夜のことであるが、被告人が検挙されたのは同年六月一九日であり、前記自白調書は同月二〇日から同年七月五日までの間、七回にわたり、望月警部補によって、順次、作成されたものである。

警察における取調の模様につき、被告人は第一、二審公判で、「警察では、殴る、蹴るあるいは膝の上に乗って足で踏みつける等の暴行を受け、ああだろう、こうだろうと言われるので、私もそうですと返事をしただけで、私から進んで申し上げたのではありません」、「一番酷く叩かれたのは六月二〇、二二日、七月四日の三回です」、「六月二〇日は午前八時半か九時頃から調べられました」、「刑事部屋に行くと紅林主任とほかに二人の警察官がいた、私は紅林主任の前に座っていたが、鈴木刑事は棒を突いておどしたりしていました」、「私は最初否認した」、「紅林主任は少し調べて」、「この野郎に間違いないと言って、席を立って出て行った、その後で鈴木刑事が代って調べた」、「鈴木刑事は、主任が怒って帰って了ったが、どうするのだ、ずっと言わなければ駄目だ、僕が謝ってやるから主任に言え、主任に言って謝れと言ったが、私が言えぬと言うと、これだけかばってやっているのに言わぬか」、「俺達はよく知っているんだと言い、両方の頬を殴った、そんな調べが午前一一時か一一時半頃まで続いた、その時は座らされていて、引張られたりして足の皮がむけた、その時大沢ゆきを殺したことを言った、一二時近かったと思う」、「調べの時には、鈴木のほかに刑事が二人いた、机を前にして、真中に鈴木がおり、質問し、脇にいた部長らしいのがメモを取っていた」、「それは小倉部長と思う」、「鈴木は私の穿いていたズボンの膝のところを掴んで座敷を引きずった、長い間畏まって座っていると足が痛くなるので、動くと、動くと言って両方の股の外側を蹴った、三回位引きずり回され、四、五回蹴られた」、「鈴木は、私を殴ったり、蹴ったりし、又鼻の中へ指を入れたり、私が座っている膝の上へ立ったり等して暴行をした、私は苦しかったので、言うから主任を呼んで貰いたいと言って、調書にあるとおり言ったのである、そして望月司法主任が調書を取った、紅林主任から望月司法主任に紙を渡し、同人はそれを読みながら、私に聞いて調書を作った」、「調べられる時は望月はいず、調書は夕方出来た、夕食は碌に食べなかった」、「一日おいて二二日にまた調があったが、暴行を受けた」、「その時は、鈴木、小倉、矢部の三人であったが、主とした鈴木が調べた」、「調べをしたのは午前中であるが、初めの時と同じような暴行を受けた、鈴木が酷しくやった、ほかの者は少しやった、二〇日の最後に向うの言うのを認めたが、二二日にはやらない、前に言ったのは嘘だと言ったので、暴行を受けたと思う、暴行されてまた嘘の自白をした、午前中部長らしいのがメモを取って、それを望月にやった、そして昼食後、夕方と思うが望月に呼ばれた」、「鈴木が、お前はやったと言っているが、本当のことがない、正直に言えと言うので、私がやっていないと言うと、この野郎太い野郎だ、人を騙したと繰り返えし、この野郎ひどいことをしてやると言って殴ったのである」、「三、四回引きずり回され、三、四回蹴られ、五、六回以上殴られた」、「それで、午後の取調を受けた時、私はまた自白した、午後は刑事部屋で調を受けたが、初めは三人の警察官で、後で紅林主任も来たと思う、前に言ったように、余り殴られたり、蹴られたりして、暴行に耐えかねて嘘の自白をしたのである」、「その日、棒を見て驚いたことがある、それは紅林主任に調べられている時、後ろの方でおどされたので、私が一寸後ろを見たら、後ろを見るではないと叱られたが、その時その棒を見たのである」、「その日、調室で私は足が痛み、血が出ていたので、持ち合せていた紙を切り、傷口にそれを貼った、その傷は午前中暴行されて出来たものである、二〇日の時は傷も小さく、血がにじんでいた程度で、紙を貼った程度であった、両方の足である、二二日は傷が大きくなり、座った後、畳は血に染まっていた」、「望月が用紙を取りに行って戻って来た時、私は傷にさわっていた、それで私にどうしたと言った、椅子が二つあって、私はその一つに腰をかけ、一方の椅子に足をのせてさわっていた、傷があって痛いというと、見せろと言うので、見せた、すると酷いな、おやじが一五〇〇円入れて行ったから薬を買ってやろうと言った、それから調書を取って、留置場へ移ったら、間もなく、薬を持って来て呉れた、年寄りの看守であったが、私は傷にそのマーキュロとペニシリンをつけた、両方の足の傷のところに、先にマーキュロを塗り、その上にペニシリン軟膏を貼った、その後一週間後は朝晩毎日のようにつけていた、七月六日頃移監の時は傷は治って薬も使っていなかった、薬は余っていた、医者には診て貰わなかった、傷跡は残っていた、今まで水虫にかかったことはなかった」、「一番酷く叩かれ痛みが残ったのは二〇日の時だと思う、足の皮のむけたのも二〇日である」、「二〇日、二二日の後も、調書の変る毎にやられた、金庫を鉈で開けたと言っていたのを、たがねで開けたと言うと、お前の言うことは当てにはならないと言って殴られた」、「六月二九日頃と思う、検事に嘘を言ったと言って、刑事室で、二、三〇叩かれた」、「七月五日は検事と現場検証に行ったが、前の晩七月四日に叩かれた、検事が一度調べに来てから一週間位経って、四日の晩だったと思う、紅林等いつもの人の調べがあり、その時新しい人が二人来た、紅林は二人が後で聞くと言って帰った、私は二人の前に座らされた、鈴木は左側にいて二人から調べを受けた、調書にあることについて聞かれたので、私はそうですと言った、するとお前の言うのは嘘だ、一つも言っていない、本当のことを言わないと言って殴られた、それで私は死刑志願書を書いた、それからほかの人が替って死刑志願を取消せと言い、また殴った、それで私はひっくり返えて了った、そして鈴木に起されたのだが、その時今度検事が来たら本当のことを言えと言われて、死刑志願を取消した、その日は二人が殴った、調べの度毎に殴られたのだが、大体鈴木が殴った、そして、その翌日に検証があった」、「七月四日の晩は、取調というより殴ったというべきである」、「その晩は警察官も酒に酔っていたようで、何処ということなく、めちゃくちゃに殴られたので、翌朝顔を洗う時に顔など腫れていた」、「七月五日自動車に乗っている時、母と妹に対面した」、「望月警部補に買って貰った薬は、静岡の刑務所に入る時に、受付に預けて置き、その後宅下げになった」、というような供述をしている(第一審第九回、第一六回、原審第一回、第七回、第一八回各公判調書)。

これに対し、紅林麻雄、望月美之次の両警部補、鈴木忠雄巡査部長は第一、二審で、また小倉一男巡査部長、矢部宣治、中村良一郎の両巡査は第一審で、それぞれ、証人として、右のような拷問、脅迫、強制等の事実はなかった旨証言しているのであって、被告人の言うところを、今、直ちに、そのまま信用するわけにはいかない。

しかし、この点に関し、証人早崎俊造(収賄事件の被疑者として、庵原署で、被告人の隣房にいた)は第一、二審で、「昭和二五年六月二〇日か二三日に房の横の看守の部屋で、被告人が足に赤チンを塗っていた、そこに刑事が入って来て、そんなになったのかと言っていた、被告人は膝から下の前の方に塗っていた、私は調べの時、座らされて痛くなり、足をずらすと皮がむくれるのを経験したが、それだと思った。」旨(記録六四九丁裏以下、一七四七丁以下)、証人村瀬昭一(暴力行為等処罰ニ関スル法律違反事件で、被疑者として、被告人と同房にいた)は第二審で、「松永の左か右の頬に腫れたところがあった、殴られたと聞いたので、そのように思った。」旨(同一八一九丁以下)、証人西山猛司(若い巡査部長)は第二審で、「七月六日と思うが、被告人が庵原地区署から静岡刑務所に送られる時、同人にマーキュロとペニシリンを買って渡した、午後二、三時頃同人がジープに乗ろうとする前、マーキュロとペニシリン軟膏を手渡したのである」旨(同一八四五丁以下)各証言しており、東京拘置所長の収容者の領置品に関する件回答書(同一七九七丁以下)には、被告人が昭和二五年七月一〇日収容携入した品の中にマーキュロとペニシリン軟膏があった旨の記載がある。

また、証人松永勝子(被告人の妹)は第一、二審で(記録七二一丁裏以下、一五八八丁以下)、証人松永平次郎(被告人の父)も第一、二審で(同二四八丁裏以下、一五五〇丁以下)、それぞれ、同年七月五日被告人が検察官等と現場検証に来た際、左もみあげのところが黒ずんでいた旨証言し、証人松永きみ(被告人の母)は第二審で(同一五七八丁以下)、同日被告人を見た時、肥えていると思ったが、今思えばむくんでいたのである旨証言し、前示松永平次郎証人は第二審で(同二三五五丁以下)、その翌日苦情をうったえに但沼巡査部長派出所に赴いた旨証言しているところ、第二審証人森亀太郎(警察官)の証言(同二三二六丁以下)によれば同年七月六日被告人の父平次郎が派出所を訪ねていることが明らかである。

その上、被告人の司法警察員に対する昭和二五年六月二二日附第三回供述調書(記録五三五丁以下)によると、被告人は同日朝刑事に対しては自白を翻えしたが、後また犯罪を認めるに至ったこと、その取調の時、刑事が長い棒を持って来たことが窺われ、なお、被告人の司法警察員に対する各供述調書を仔細に点検すれば、被告人は本件自白の重要部分であり且つ記憶違いをする由もないと考えられる犯行決意の日時、手提金庫を開けようとして使用した道具の点につき供述を変更していることが明らかである。

また、第一、二審における証人紅林麻雄、同望月美之次、同鈴木忠雄の各証言および第一審における証人矢部宣治、同小倉一男の各証言等によれば、司法警察職員で被告人を取調べたのは紅林、望月両警部補、鈴木、小倉両巡査部長、矢部巡査等で、紅林警部補が、主として被告人の取調に当り、調書はもっぱら望月警部補が作成し、他は紅林警部補の取調を補助したものであることが明らかであるにもかかわらず、第一審における望月証言(記録三五三丁以下)、第一、二審における鈴木証言(同四一四丁以下、二一九九丁以下)、第二審における紅林証言(同一八五二丁以下)によっても、紅林警部補が主として被告人を取調べておきながら、何ゆえ自らは調書を作成せず、わざわざ望月警部補をしてこれを作成せしめるに至った(被告人の警察における供述調書は悉く望月警部補が取調べこれを録取した形をとっている。)のか理由が判然としない。

そして、第二審における証人岡田唯雄の証言(記録一六九七丁以下)によれば、もと検事で、本件発生に当っては、自ら検察官としての捜査に従事し、第一審公判ではその立会検察官として公判に出席し、本件公訴その維持に努めた同人すら、被告人の司法警察員に対する自白には、芝居じみたところもあって、これを信用せず、疑いを持ったことが明らかであり、また第一審第五回、第九回、第一〇回公判調書によれば、同検事がとかく右供述調書を公判に提出することを渋ったかの如き事実も窺われるのである。

以上のような諸般の事実を綜合すると、警察における被告人の取調は、司法警察職員の第一、二審における弁明の証言にもかかわらず、被告人が第一審以来供述してやまない程、苛酷なものであったかどうかは別としても、そこには可なり無理もあったのではないかと考えざるを得ない。この意味で、被告人の警察における自白はその任意性に疑いがあると見るのが相当であるというべきである。

しからば、原判決が被告人の司法警察員に対する本件供述調書に任意性ありとし、第一審判決がこれを他の証拠と綜合して犯罪事実を認定したことを是認したのは、右調書の証拠能力に対する判断を誤り、採証すべからざる証拠を証拠とした違法があるに帰し、しかも右調書は犯罪事実認定の有力な証拠となっているものと認められるからこの違法は判決に影響を及ぼさないとはいえず、原判決はこれを破棄しなければ著しく正義に反するものと認める。

よって、その余の論旨に対する判断はこれを省略し、刑訴四一一条一号により原判決を破棄の上、同四一三条本文に則り本件を原高等裁判所に差し戻すべきものとし、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 小谷勝重 裁判官 藤田八郎 裁判官 河村大助 裁判官 奥野健一)

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